前回の「B to Cを目指す理由 その2」で最後の方にソビエト解体の話を出したので、その流れで今回は資本主義と社会主義の事例から民主主義における自由とは一体どういうものなのかを考察していこうと思います。
結論から先に言うと、民主主義における自由とは「弱い方に徹底して与えられるチャンス」と「平等なルール」の二つになります。
よく勘違いされていますが皆がそれぞれ好き勝手にやるのは自由ではなく「自然」な状態というやつですね。
自然状態だからこそ強い奴が好き勝手に振る舞い弱い奴は強い奴に従うのです。
まぁその辺は後で見ていくとして、まずは資本主義と社会主義の比較を見ていきましょう。
資本主義における平等
もう30年以上昔世界は資本主義と社会主義の二つの陣営に分かれていて、1991年のソビエト解体で社会主義側が負けたということになっています。
その理由に「資本主義には自由があって社会主義には自由がなかった」というのが挙げられます。
自由だからこそ優秀な人は沢山お金を稼げる、お金を稼げるからやる気を出す、やる気を出すからパフォーマンスが向上する、というロジックですね。
ただこれは優秀な人が資本主義と社会主義を並べてどちらを選ぶかってなった時に資本主義を選ぶ理由にはなるけれども、既に社会主義に所属している人のやる気が出ないわけでもパフォーマンスが低下するわけでもないので間違っていると言えますね。
もしそうならオリンピックとかの世界大会で資本主義の選手に社会主義の選手はまるで歯が立たない成績しか出せなかったはずで、実際は社会主義国の選手の方が上回っていた競技も普通にあったりとちゃんと肉薄した成績だったので、むしろ選手のやる気やパフォーマンスに収入の格差は影響がないってことの証明になります。
スポーツだけじゃなく科学技術の面でも宇宙開発とかソビエトの方が先んじていた印象がありますし、そもそも本当に収入の格差がやる気に繋がるなら70年も国の体制を維持できないでしょう。
では実際は資本主義と社会主義でどこがどう違ったのかというと、資本主義国の方が社会主義国よりも平等な部分があって、そこが底辺~中流層のやる気に繋がっていたと言えます。
それは何かというと「機会平等」です。
この「機会平等」が徹底されていたことによって資本主義国の人は一発逆転の成り上がるチャンスがあると希望を持てていたのです。
では具体的に資本主義で成された「機会平等」がどういうものか見ていきましょう。
まず、資本主義でも社会主義でも子供の頃は学校等に行って勉強や運動や何やかんややります。
そしてそこで何らかの才能を見出された場合は、その道へと進路を決めるのが自然な流れとなります。
それは資本主義でも社会主義でも同じことです。
ただ社会主義では進路を決める方法は実質それだけで、学生までの期間で人生の全てが決まってしまいます。
歳を取ってから才能なりやりたい事なりに気付いても、転職とかのチャンスはそう簡単に与えられるものではないのです。
だからうだつの上がらない人生を割り振られた者は一生うだつの上がらないままだと事実上決定してしまい、それがパフォーマンスの低下に繋がっていったというわけですね。
そして資本主義の場合は学生時代成績が悪くても仕事が全然出来なくても、起業はやる気があれば誰でも出来るし、失敗しても破産とか使ってフォローされるような制度もある。
なので仮に現状に不満を持っていたとしても、やる気がある者にはその人生を変えるチャンスが徹底して与えられるので、人々のやる気は増し仕事のパフォーマンスも向上したというわけです。
裁判の定義
先ほどは資本主義と社会主義の違いを通して「機会平等」について見てきました。
しかし平等という概念自体所謂弱肉強食な自然状態からすれば単なる弱者優遇に過ぎないわけで、私的には平等というのはあって当たり前の存在じゃないという意識は持っておきたいところもあるので、この記事の最初のところ言った「弱い方に徹底して与えられるチャンス」という言葉に言い換えさせていただこうと思います。
まぁそれで「弱い方に徹底して与えられるチャンス」ですが、民主主義における自由権の基本概念ですので、社会の様々なところでその理念が顔を出しています。
その中でも例えばですが裁判における三審制を通して見るのが分かりやすいでしょう。
しかしその前にそもそも裁判とか司法ってどういう存在なのか、学校教育でされる定義が曖昧なのもあって殆どの人がよく知らないままだと思いますので、そこから定義していきましょう。
裁判って何なのかというと、日本国憲法の中に「裁判を受ける権利」というものが存在しますが、そもそもこの表現がおかしいのです。
「裁判を受ける」というのはある意味「公的機関を通して他者から攻撃を受ける」ということなので、基本的に裁判というものは受けたくないものであり、裁判を受ける権利なんてものは要らないんですよね。
こう言うと多分「公権力が警察とか使って好き勝手個人を攻撃出来ないようにするために必要な権利」という意見が出てくるでしょうが、そういう場合は日本語的には「裁判を通す義務」という方が妥当だと思います。
そしておそらく殆どの日本人が「裁判を受ける権利」を実質「裁判を通す義務」の意味で使っているでしょう。
ですが人権という概念において「裁判」に「権利」は存在します。
どういう権利かというと「裁判を起こす権利」の方です。
裁判っていうのは結局何かというと、よく法律違反を咎めるのが目的みたいに思っている人が多いと思いますがそれはあくまで手段の方で、目的は国民が社会生活の中で何か困ったことが起こった時に、それを解決するための訴え先となるのが目的です。
ある意味国民の不満の受け皿となることが目的とも言えますね。
おそらく何か不満があったらとりあえず役所に行ってそこでたらい回しにされるっていうイメージがあるかと思いますますが、本来はそういう受付的な役割は裁判所が担うべきところなんですよね。
訴えの数が多すぎて裁判所で裁ききれないのであれば街の弁護士事務所でそういう役割を担えばいいわけですし。
まぁ裁判所っていうのは国民の不満の受け皿となるべき場所なので「裁判を受ける権利」よりも「裁判を起こす権利」の方が本来人権という観点から見れば重要なわけですよ。
ただ無制限に「裁判を起こす権利」を認めてしまうと、他人を攻撃する手段として裁判を悪用されてしまうので現状は刑事と民事に分けて民事の方だけ「裁判を起こす権利」を認めているという感じですね。
徹底することの重要性
さて、そういうわけで裁判について定義してきたわけですが、これが何故三審制を取るのかを見ていこうと思います。
まぁ理由自体は弱い方にチャンスを与えるということを徹底するためなんですが、ただチャンスを与えることが目的であれば一回で十分だと思いませんか?
「一回だと不正な裁判官に当たった時に取り返しがつかない」という理由は、そもそも不正が行える組織なら一回だろうが三回だろうがノーチャンスなので理由になりません。
仮に不正ではなく裁判官の思想信条の違いで判決が変わるというのであれば、裁判のチャンス自体は一回で刑事事件の場合被告人側に裁判官を選定する権利を与えればいいだけです。
そうすれば犯罪者を有罪にするためには裁判官の裁量に左右されないようなシステムを構築せざるを得なくなります。
公平な裁判の実現という観点から見れば、三回同じ議論をするよりも裁判官の裁量に左右されないシステムにした方がメリットが大きいでしょう。
あと「三審制で時間をかけて複数回議論することにより誤った判決を出すことを防ぐ」というのも、はっきり言って理由にならないと思います。
確かに拙速に結論を出すことは誤った判決を出す原因になりますが、時間をかけ過ぎた場合も誤った判決を出す原因になりえます。
事件の証拠や情報を集め整理し考察し議論し結論を出す、それぞれ時間が必要な事ですが、証拠とか情報なんか(特に証言)は時間が経つと色あせて消えていくものです。
そんな曖昧な記憶と化した証言というのは検察或いは弁護人の作ったストーリーに引っ張られて間違った判決を導き出すのに一役買うのです。
では何故三審制という無駄に時間がかかり過ぎるものを採用しているのかというと、(刑事事件の)被告人側が失敗した時にもう一度チャンスを与えるためです。
「資本主義における平等」のところでもそうでしたが、失敗してもリカバリーできるシステムになっているかどうかが、結果はどうあれ自分で選んだという実感を得る上で重要なわけです。
社会主義でも学校教育の間、自身の能力をアピールするのに十分な時間とチャンスが与えられ、成果という意味でも上流層は資本主義国に負けないぐらいの成果を出せていた。
だがそれでも自由を実感するには程遠かった、大人になってから進路を変更したり転職したり、起業での失敗をフォローしたりといった部分でのチャンスはなかった。
自由を実感するには「十分」ではなく「徹底して」チャンスを与えなければいけなかったというわけですね。
これが「弱い方に徹底して与えられるチャンス」の意味になります。
ちなみに裁判におけるチャンスの数が三回である理由については分かりません、というか多分理由なんてものはなくてノリで決めてると思います。
自由とはルールの中にのみ存在するのか?
自由を実感するのにもう一つ必要なのが「平等なルール」です。
「弱い方に徹底して与えられるチャンス」というのは明らかに弱者優遇のための措置なのですが、それを規定するルール自体は強い奴にも弱い奴にも平等に適用されなければいけない、まぁ当たり前過ぎて本来はわざわざ言う必要もないような概念ですね。
とはいえ最近はマスコミとかツイフェミとかJリーグスタジアム問題とか「不平等な優遇」を当たり前のように求めてくる恥知らずな輩をよく見かけるようになったので、一応ここでも触れておこうと思いました。
それにしても「ルール」と「自由」なんて辞書的な意味では対義語的な立ち位置だと思うんですが、まぁ「自由というのはルールの中にあって初めて存在できる」という系統の話は割とどの分野でも出てくるというか、もう共通認識というかコモンセンスってことにしてもいいんじゃないですかね。
一応言及しておくと、自由がルールの中でのみ存在できる理由は、ルールがあることによって理不尽な妨害がされなくなるからです。
例えばサッカーで相手を殴ったり蹴ったりしてもOKってなったら、サッカーをやってもサッカーボールを上手に蹴れる奴より喧嘩が強い奴の方が勝つってことになります。
そうなるとサッカーという競技自体がつまらなくなって誰もやらなくなるので、結果としてサッカー競技が無くなるって寸法です。
そしてそんなルールの無い世界で仮に喧嘩が強かったとしても、他に何も無いから喧嘩とセッ○スぐらいしかやることがないので、結局それは牢獄にいるような不自由な状態ってことになります。
まぁ自分自身が何が出来るかよりも他人との関係でマウント取るのが全てって人にとってはそれでいいのかもしれないですから、ルール無用の北斗の拳の世界に自由は存在しないってのは言い過ぎかもしれないですね。
平等かどうかは個人の感想
さて、先ほど最後はちょっと疑問形な感じで終わりましたが、一応自由はルールの中でのみ存在できるという話をしてきました。
ただ、ルールなら何でもいいわけではなくて、ちゃんと「平等なルール」である必要があります。
ただ、大抵のルールはスポーツのルールが平等であるようにちゃんと平等なのですが、前回紹介の法人税を使った金融業への利益誘導のように法律とセオリーを組み合わせて巧妙に偽装している場合もあるので、暗黙のルールとか習慣も含めて見極める必要があります。
そしてその上で平等かどうかの判断はあくまで個々が納得するかどうかによるということです。
先程スポーツのルールは平等と言いましたが、例えばバスケットやバレー等はあからさまに身長が高い方が有利になるようなルール設定になっているので、ある意味平等ではないと言えるのかもしれません。
ですが、あくまで身長が高い方が有利だという知識をちゃんと持ち合わせた上で「平等なルール」だと大勢の人が認めているからメジャーなスポーツとして認知されているわけです。
キリが悪いですが下手にまとめをやると逆に終わらなくなるのでここで終わります。

コメント