囚人のジレンマを通して民主主義を考える

 A自白A黙秘
B自白I(A5年、B5年)II(A10年、B0年)
B黙秘III(A0年、B10年)IV(A2年、B2年)

上の表は囚人のジレンマという思考実験における2人の囚人A・Bの行動と懲役の関係をまとめたものです。
ちなみにAとBの立場は一応囚人ということになっていますが、現代の社会システムと齟齬がないようにするならA・Bは被告とか容疑者として考えた方がいいでしょう。
wikiとはちょっと違うと思いますが、ストーリー仕立てで条件を見ると次のようになります。

・被告A・Bは被害者の自宅に侵入して強盗し怪我を負わせたという嫌疑がかけられている。
・強盗傷害が被告A・Bによる犯罪だと証明できれば懲役10年の刑を科すことが出来るわけだが、その為の証拠が足りずAまたはBのどちらかが自白して法廷で証言する必要がある。
・もし自白を引き出せなかったら強盗傷害の証拠は認められず、住居不法侵入罪等での2年分ぐらいしか刑を科すことが出来ない。
・そのため検察には司法取引でどちらかの罪を見逃す権利が与えられていて、見逃された方は罪に問われない(懲役0年)ようにすることが出来る。
・ちなみにAとBは互いに隔離されていて相談することが出来ない。

この状況でAとBはどんな決断(自白か黙秘)を下すのか、というのを考えるのが囚人のジレンマという思考実験になります。
”各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので、社会的ジレンマとも呼ばれる[2]
1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案した[3]ランド研究所メリル・フラッド英語版)とメルビン・ドレシャー英語版)の行った実験をもとに、タッカーがゲームの状況を囚人の黙秘や自白にたとえたため、この名がついている[4]。”(wikipedia囚人のジレンマのページから引用)

IVは駄目ですIを選ぶのが正しいです

この研究って先ほどの引用部分からも読み取れるように、IV(AB共に黙秘)が囚人にとっての最適解なのに、自己の利益を優先させてI(AB共に自白)を選んでしまう、それは社会システムとして欠陥だから何とかしてIVを選ばせるよう工夫する必要がある、っていうのが研究の趣旨みたいですね。
ですが、筆者から言わせればIを選ぶのが正しくて、IVは最悪の選択なんですよね。
もし仮にこのAとBが実は強盗傷害(懲役10年分の犯罪)をやってなくて冤罪だったのであれば、互いに黙秘するIVが正しい選択です、その場合自白したら逆に嘘になりますからね。
ですがこのテーマで冤罪の可能性が考慮されたことはないので、AとBの犯罪に疑いの余地はないとするのが妥当でしょう。
そうするとIが正しいのです。
だって、Iの状況ってAB共に犯罪の自白をして事件が解決したってことは間違いないわけです。
その上で司法取引か情状酌量の余地を考慮されてか分かりませんが刑期を5年に短縮されていて、AB共に反省している可能性が高そうなルートですよね。
それに比べてIVはAB共に黙秘をしていて強盗傷害事件が闇に葬られたのは間違いなく、AB共に全く反省していない上に短期で出られるので再犯の可能性も高そうです。
そうなると、IとIVどちらが「社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)」なルートかって考えたらIだと思いませんか?

まぁこれについては「パレート最適」の範囲がAとBの二人だけと設定することで、少なくともAとBの二人にとってはIVが最適解と言えなくもないかもしれません。
しかし、その場合でも社会の中での時間的な連続性を無視していると言えます。
要するに不当に刑罰を逃れたことによって、それが原因で社会的な信用がガタ落ちしてしまう(村八分にされるとか再就職できないとか)というデメリットとかを無視してるってことですね。

AとBの損得は刑期の長さだけで考えろって?
しょうがないなぁ、でもAとBがそこまで阿呆なら論理的思考をして「自白した方が得だ」って気付くことすら出来ないから、そうなると自白も黙秘もどちらも選ばれる可能性がある、つまり囚人のジレンマ自体発生しないよね。(囚人のジレンマが成立するにはABの賢さも必要)

また仮にAとBは刑期以外の損得は無視するが刑期に関してだけは論理的思考が出来るってところまで指定するなら、もう現実には存在しない設定で考えるわけだから、Iが悪でIVが正義っていう前提で話を進めることも出来ないよね。
数学的思考と割り切り、刑期以外の全てが無価値な仮の世界という設定で、その世界で賢いAとBが本当に自白を選択するのか、それはもう誰にも分からないんですよ。
だって実際にIVの方がIより刑期が短くなるわけですから、その世界ではAとBはナッシュ均衡でIVを選ぶかもしれない。

そもそも社会全体の利益のために個々人が少しの損を受け入れるべきだという趣旨の研究で、例として挙げられるのが囚人の刑期で社会の利益と相反してたりもしますから非常に分かりづらい。
その分かりづらい例を採用している理由は、個々人が敢えて損をする選択肢を選ぶことで社会全体の利益が最大化する、そんな事例は現実に存在しないからなんですよね。
「損して得を取る」という諺がありますが、それは長期的な視点で得をするという見込みを付けた上で目先の損を受け入れるという意味であって、それが一番得になると思って選択した結果なわけです。
囚人のジレンマの事例でもAB間で話し合うなり契約なりが可能なら、IVが実現する見込みが立てられるのでジレンマには陥らない。

結局、最終的に得をするという目途が立たない状態で損を受け入れても、それで社会全体が得をするなんていう事例は存在しないんですよね。
しかもIIとかIIIみたいに損した分が別の誰かの糧になるならまだマシで、実際は誰の得にもならず無駄に損をしただけってパターンの方が圧倒的に多いです。
何も分からないまま損を受け入れて結果たまたま良い方向に転がるっていうのは、わらしべ長者レベルの運命力が必要なんですよ。

皆で少しずつ我慢する地獄

囚人のジレンマにおいて、Iのパターンは「社会の皆がそれぞれ好き勝手やってしまうとそれに応じて沢山の不利益が生じる」というネガティブなイメージを請け負っていて、逆にIVのパターンは「皆で少しずつ我慢すれば全体で最高の結果が得られる」というポジティブなイメージを獲得しています。
そして現代社会ではそのイメージを使って「好き勝手なことをするな、お前が少し我慢すれば社会全体が良い方向に進むんだから大人しく従え」といった感じで他人を従わせようとする輩がいて、実際はそいつらのせいで社会が悪い状態から脱却できないと、ここではそういう話をしていきます。

まずIのパターンの「社会の皆がそれぞれ好き勝手やってしまうとそれに応じて沢山の不利益が生じる」というネガティブイメージですが、これは反論の余地なくその通りです。
なぜなら人間というのは森羅万象において知らないことだらけで、その知らないの中に正しい答えがあるのであれば、それは間違えて当然なんですよね。
問題はIVの「皆で少しずつ我慢すれば全体で最高の結果が得られる」という方ですね。
これがもう完全に嘘八百というやつになります。

これを囚人のジレンマに出てくる言葉でモデル図を使って説明していきましょう。
まず「各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならない」問題についてですが、ナッシュ均衡は個々の人間が知っている範囲で、パレート最適は森羅万象が範囲という風に読み取ることが出来ます。
なのでパレート最適の解を知らなければ、当然ナッシュ均衡と一致することはないです。
しかしナッシュ均衡自体は人の知識の中での最善手であり、人の知識がパレート最適まで届いていればそれらは一致することになります。
なので少なくとも最悪の選択は回避出来ることが保証された上で、最高の結果が得られる可能性があるのです。

しかし「皆で少しずつ我慢する選択」というのは敢えてナッシュ均衡から落とした選択になります。
ナッシュ均衡がパレート最適と一致していないことを理由にナッシュ均衡を否定して、見栄えだけ整ってる嘘で塗り固められた案を偽って提示するのです。
当然そんなものがパレート最適と一致することはありませんし、ナッシュ均衡と比べても当然劣った選択になります。
これが「皆で少しずつ我慢すれば全体で最高の結果が得られる」が嘘八百であることの根拠です

ちょっと概念的な話ばかりになってしまったので、今までの話を具体的なテーマを使って例えてみましょう。
ズバリ、核兵器のない平和な世界を実現するにはどうしたらいいか、というテーマです。
ここでのパレート最適は核兵器のない平和な世界にあたり、ナッシュ均衡は今現在の世界の現実(核兵器が沢山ある状況)にあたります。
もうこれだけであとは説明不要だと思いますが、一応続けましょう。
核保有国というのは当然核兵器を持っていた方が得だから核兵器を持っているわけで、核兵器を捨てさせたければ核兵器を捨てた方が得な状況を作り出せばいい。
しかしそれをせずに「核保有国はそれぞれ我慢をして核を捨てろ」と言い「核兵器で溢れている今の世界は最悪だ」と現状を呪うのが「皆で少しずつ我慢しろ」と主張する人達になります。
もし仮に皆で少しずつ我慢して核を捨てたら、その結果世界はどうなるでしょうか?
当然核兵器を持っていた方が有利な世界で敢えて我慢をして核兵器を捨てるのです。
どうなると思いますか?
筆者は抑止力がなくなることで核を隠し持っていた悪い国やテロリストが台頭してきて世界を牛耳る、そんな悪い展開しか思いつかないのですが「皆で少しずつ我慢しろ」と主張する人達はそういう懸念に対して何も考えていないので何も答えません。
このように「皆で少しずつ我慢する選択」というのは、結果に対して無責任で自分では何も考えず理想だけを他人に押し付ける、まさに最悪な選択といえるわけです。

衆愚政治と皆で少しずつ我慢する選択

さて、ここまで「皆で少しずつ我慢する選択」というのをこれでもかというほど批判してきたわけですが、あれって実は衆愚政治とかポピュリズムとか言われてるものの構造そのものでもあるんですよね。
つまり、今の日本で現在進行形で行われている政治手法という事になります。
「最悪な選択」と口汚く罵るのは筆者自身もコレの被害を存分に受けてきたからです。
というかおそらく誰もがコレの被害を受けていると言っていいでしょう。
なぜなら「皆で少しずつ我慢する選択」なのでたとえ加害者側であったとしても被害を受けることになるのですから。

こういう衆愚政治に陥らないようにするために「少数意見の尊重」という概念が存在します。
「民主主義は多数決なのに何故少数意見を尊重しなければいけないのだろうか?」という疑問を持ったことはないでしょうか?
あれは法案に対してYesかNoか2択で選択する権利が多数派にあって、意見自体は少数派から出されたものをそのまま採用しなければならない、という意味なんですよね。
最近だと、国民民主の出した所得税の基礎控除を178万円に引き上げようという案を自民案では123万円に修正とか言って騒いでいましたが、まさにああいうのが少数意見を冒とくしている典型例になります。
実は少数意見の尊重において「無視」というのは全く問題なくて(多数派がNoと言ったら結果的に「無視」になるので)「皆で少しずつ我慢しろ」理論で法案にチョコチョコと手を加えるのが一番の冒とくになるのです。

ではこういう衆愚政治って民主主義なんでしょうか?
筆者は違うと思います。
民主主義は民があるじとして振舞わなければならないが、衆愚政治は主が不在の状況を指すと考えれば衆愚政治は民主主義ではないと言えます。
民主主義における選挙権とか表現の自由とか生存権とかの諸々の権利というのはあくまでも民が主になるための手段であって、目的は民を主にする(ノブレスオブリージュ的な意味で)ことなのではないかと。
まぁ自分で言っておいてなんですが、この「国民総キング化計画」みたいなのは正直現実的ではない目標だと思います。
なので現実では、戦争とかの辛い時代が到来することにより人々の民主主義的な本能が刺激されて多少マシな人間になり、それによって社会が改善され暮らしやすくなり、それを当たり前と思った人間が腐っていってまた地獄を作る、というサイクルを繰り返してるんじゃないかなぁと思うわけですね。

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